今日は最高

A.B.C-Zとlyrical schoolのオタク

窖の中の人間を愛しく思った

※これは舞台 奇子の感想です※

 

奇子、終わったあとに妙に人を肯定したくなる舞台だなぁと思いました。

人間は弱いなぁとも面倒くさいなぁとも思うけど、その面倒くささとか弱さがとても愛しいんだよなぁと。

 

そう思った理由を2つの視点から。

1つ目は、時代というどうしようもない波に翻弄されていった田舎の一族として、天外はさしてクズの集団でもなかったのかもしれないということ

2つ目は、今回脚本の構成で感じた奇子の抽象性の怖さ

 

1.天外は時代の産物

(とはいえあんなに勢ぞろいしちゃうのはやっぱやばいなとは思うけど)

 

物語の舞台となった戦後のあの時代

戦後急速に進む欧米化の中で家父長制は廃れていき

いわゆる「逆コース」によって反共の風潮は強まり

経済成長によって都心への人口の一極集中が進み

誰があの家が壊れていくことを止められただろうか、とずっと考えていた

 

価値観が激しく変わっていったあの時代に

志子のような、新しい価値観を取り込んでいった人と

市朗のような、戦前の価値観が色濃く残る人と

伺朗のような、戦前を知らない人と

山崎のような、時代の流れで生活を脅かされかねない立場の人と

そんな人たちが娯楽も多くない田舎で もはやお荷物にすらなりつつある家柄だとか世間体だとかいうものを背負わされて 集団生活

多分無理なんだよなぁと思ってしまう

もともと無理だったものは少しつつかれればもう合わない辻褄合わせをしながらゆっくり壊れていくしかないのだと

淀山事件の辻褄合わせをしようとして 人が死んで 大きな秘密を抱えて 警察に嗅ぎ回られて 今まで無理やり保ってたものがただ壊れていったんだろうなと思ってた

 

非人道的に描写される行いの数々も 決して現実世界でありえないことではなく ただそっとなかったことにされてきたりもしたんだろう

(歴史は常に権力者によって語られるものであり 今私たちの知りうる情報はそれをくぐり抜けてきた僅かなものだけだから。 そしてそうやって諸々を塗りつぶして次の時代に繋いでいくことこそまさに市朗のような立場の人間の仕事でもあって 市朗のやるせなさは私は見ててとても辛い)

 

そういったことを考えていった時に

彼らはもう最初から1/2よりもっと分の悪い賭けをさせらてた人達だと思えてきてしまって

彼らなりに何とかしよう、何とかしよう、この中で生き抜いてやろう、としている姿は とても愛しいなと思ってしまった

 

 

2.奇子の抽象性に踊らされる怖さ

仁朗の奇子に対する執着は私たちの思いつく執着の中でどこに分類されるのだろうか

というところが 割と私の中でもにゃっとしていた

 

だって私はなんだって理由を探したい人だし 因果関係を結びたいし ロジカルに物事が明かされることが気持ちいい人だから。

 

でもしばらくして、それが命取りなんだろうなぁ、と感じた

 

今回舞台の時間軸が原作と異なり、

ざっくり言えば 最初から窖で命の危機!その中で振り返る天外崩壊の歴史!悪事の数々!みたいな形で。

いわば回想として語られる歴史だった。

 

窖の中、命の危機にあたって、死にたくないという気持ちと対をなして生まれるのが「死ぬことに納得出来る理由探し」なんじゃないか。

奇子にここまでのことをしてきた我々は死んでしかるべき

悪事をはたらいたお前は死んで当然だと。

 

ただここで苦しいのは 奇子がそれを言ってくれないってことだ。

まるで、どうぞあなたが解釈してくださいと言わんばかりにそこで微笑んでいる奇子の考えの見えなさは残酷だ。

突き放す冷たさも救ってくれる温かさも持たないままただじわじわ死んでいくのを見ている。

 

あの光景には、奇子を勝手に解釈して踊らされた人達が最後まで奇子を自分都合で解釈する虚しさがある。

 

奇子の言う「好き」を「そういう好きではない」「そういう好き」と解釈してみせ

奇子を「かわいそう」と解釈し

憤慨したり嘆いたり舞い上がったりした。

 

いざ人生の最後に奇子の本音を見ようとした時

奇子の本音の見方なんて誰もわからなかった。

 

みんな自分たちの主観を通して奇子を解釈していたに過ぎないのだから。

 

奇子は閉じ込められていた分、本来経験する分の人との関わりがなかった。

だから「好き」の区別だって分からないし、自分の喜怒哀楽に自分が納得する理由を探すのが苦手だ。

結果表に出てくるのは「いや」「好き」といった抽象的な言葉。

外の世界で人と関わってきた天外の人達は彼女のその抽象的な言葉をちゃんと理解しようとして解釈してみる。けど所詮は主観が混ざるのだ。

 

「"'奇子をこのようにしてしまった人たち"の物語。」

駒井さんがパンフレットでおっしゃっていた言葉は、そんな奇子の難しさが感じられて好きだ。

 

あそこにいた奇子は、みんながみんなの目を通して見ていた奇子

あそこにいた人達は、奇子を解釈しようとして転がり落ちていった人達。

本当の奇子の気持ちは、きっと奇子の中にいるまま、上手く外に出ていけなかったのだろう。

 

自業自得のように奇子のまえで笑って苦しんでいなくなった人達は

なんだかんだ 大人になったことで変に賢くなってかえって苦しんだかわいそうな大人で 私は好きにならずにはいられなかった。

 

 

 

 

どうしようもない時代のどうしようもない環境に生まれた人達が 納得しながら折り合いをつけて生きようとして 結果生まれた不幸は 決してあってはいけないことでありながら、いつどこでだって起きうる 極めて身近で人間らしい不幸だった。

少し何かが違かったら幸せになれていたかもしれない天外のみんなは来世で

やっと自分の時間を手に入れた奇子はこれから

どこかで幸せになるといいな

そう思えた舞台でした。