五関様とコイベビ。
五関様インタビューのPERSON買い足した時にコイベビ原作を思い出したので。
人を好きになるのは果実を割って食べる行為に似てると、コイベビ原作を読んだ時に思った。
人を好きになった時(友達でも恋人でもなんでもいい)、一定のラインを超えると、きれいに整えられた外面の中のドロドロした何かが欲しくなる。
これは全員とは言わないけど、私だけだとも思ってなくて、そこそこ結構な人にはわかってもらえる感覚だと思ってる。
美人のだらしない一面とか
人あたりのいい人の愚痴とか
っていう性格精神みたいな部分もそうだけど、
汗で崩れた化粧が見たいとか
相手によっては
粘膜接触をしたいだとか
そういう身体的な部分も。
見たいってはっきり思わないけど、なんかそれを見たことで「近づけた」って感覚を得たりするなぁと思う。
コイベビ原作を読んだ時、このドロドロした何かを匂わせてる印象を受けた。
赤ちゃんは母親の粘膜を通って産まれてくるんだけど、キクとハシはその粘膜的なものに対する抵抗があるんじゃないかと。
コインロッカーの中は暑くて蒸していた。
湿度の高い閉じた空間というその点において、コインロッカーと母胎はしばしば重ねられているのだと思った。
キクはアネモネとの交流を通して、
ハシはDや二ヴァとの交流を通して、
湿った何かの概念を少しずつ上書きして生きてるのかなと。
トマトが潰れるシーンを1番わかりやすい接点として、「湿った何かを内包している閉じたもの」と母胎は緩やかに繋がっている。
そして、精神的な解放を迎える前のキクとハシにとっての世界がコインロッカーであり母胎であるといった見解はメジャーだと思うが、これが表れているのが解放を迎える前すべてのシーンにおける湿った何かの描写なのだと思う。
ドロドロして嫌悪感を誘うものが多い。
彼らにとって湿った何かはまだ母胎やコインロッカーと結びついている。
この世界は嫌な湿り気に満たされた閉じた世界だから。
さて、そろそろコイベビから離れます。
真夏のコインロッカーに捨てられた過去のない多くの人間、そしてその中でも私を含めた一定数の人間は、
嫌な湿り気に満たされた閉じた世界の中に自分を置かない(きっと置いている時期もあるのだが)。
その世界を外から見ている。
コインロッカーは中に入るものではなく外から開けるもの。
人体は自分たちにとって、もう、中に入るものではなく、守るものか外から開けるもの(婉曲)になるから。
綺麗に整えられたその外面を"外側から"開けて、触れてみたいのだ。
で、
そんな衝動を、そそるのがうまいのが五関様なんだと、PERSONを見てて思ったのだ。
アイドルという職業の人達は、綺麗に整えられた外面から内包したドロドロを少しだけ覗かせるプロだと思う。
現状に対するジレンマとか、推し変される嫉妬とか、あるいは、片付けができないだとか、ちょっと口が悪いだとか、そういうのを、作り物みたいな彼らが覗かせるもんだから好きになっちゃう。(勘違いして間違いを起こす人がいるのもロジック的には何となくわかってしまう)
もっと簡単なところで、汗をかいてるとか、それで化粧が崩れるとか、そういうのも同じ感じがする。
※ドロドロって言うと嫌なことみたいに感じられるけど、人間らしさみたいなもんかな。通常人には見られたくない部分みたいな。(言うの遅いな)
五関様はマジでドロドロのチラリズムが天才的なのだ。
外面をガチガチに固める(ような印象を与える)。
汗とも乱れとも無縁の印象を普段は与える。
汗と泥にまみれた努力はあまり見せないし、何にジレンマを感じるのかわからない。
嫉妬とかするのか?みたいな感じ。
だからこそ、パフォーマンスで見せる汗だくの姿や、たまに覗かせる野心とかが最高に愛しく感じられる。
綺麗に整えられた外側をこじ開けて、おっこれがドロドロかな?ってちょっとわかったような気になってたら案外入れ子式で、結局彼のことなんて何もわからないなと思い知らされる。
そういうのが素敵だと思うんです。
PERSONの五関様のインタビュー、まるで彼の内面を暴くような言い方だけど、結局なんか大切なところはやっぱりうまくはぐらかした。
最高だと思った。
あんな真ん中の方のページだと、とてもいい意味でひっそりと存在していて、本当に、彼の内面を、ドロドロした何かを見られると期待しちゃうじゃんか。
話題のPERSONの素顔に迫るTVガイドPERSON。
PERSONって名前をこんなに意識したの初めてですね。
五関様というPERSONのPERSONALな何かに迫ろうとしてPERSONAを見せられた感。
最高でした。
よくわからないけど締めます。
ありがとうございました。